![]() かっての、その一国の指導者が、処刑される画像をめぐり、さまざまに、その立場を異にする視点から、その画像そのものの是非をめぐる見解がだされている。しかしながら、そこにあるものとは、死という恐ろしく絶対的なものに対する認識は抜けおち、もっぱら素材、画像そのものが及ぼす、かれら自身の立場の利益不利益のみが喧伝されている。 そこには、死にゆくものに対する尊厳、哀悼、、あるはずの素朴な感情すら微塵なりとも存在しはしない。死を自らの生と切り離した、相対的対象とされる心のありように関して、社会、、政治といった、流れゆく事象に背をむけ、感慨をめぐらすことの必要性を痛感する。ましてや、自ら信ずる宗教、、神をもちだし、さらなる混乱に拍車をかけるとき、宗教とは、もはや、なすべき方便すら失ったといえるだろう。原理原則による宗教の足かせ、信仰による拘束は一足とびに道徳や倫理を、とび越えてしまった。 死にゆくものを前にした時、自らがその現実の時空に位置する場合においても、あるいは、、画像といった、時には、文字といった、、文学、芸術表現においてすら、死にゆくものをして、ひととして共有する感情、、まったくの絶望感、そして恐怖感、そこから反転されゆく感情としての哀悼感、、それらが沈静、昇華されてゆくすえの悲しみ、深遠なるおもい、、それらを通じての生への歓喜へと、、さらなる反転するおもい、、、 死を演ずるものが与えてくれるものこそ、絶対的価値もち、死者への尊厳へ結びつく。もちろん、生の歓喜を表現するものが、死ばかりではない。性もまた然りである。だが、この場合、命を存えつつあるものどうしによる関係である、ゆえに必ずしも絶対的表現行為とはいえない。なぜなら、死こそが、絶対であるからにして。 ここで、絶対的とは、まったき絶対的ものであり、絶対的なものである。死を相対的な生として、接する限りにおいて、そこには現実的扇動性のみが残るだろう。死は、なによりも命そのものであり、生とはなにかを導く、絶対的表現行為であることは、紛れもない。 このように考えると、、この度の画像にまつわる報道、情報は、悲しむべきことといえるだろう。ただ、、この、かっての指導者の処刑画像にまつわる云々は残念にしろ、その映像からみる限りにおいて、死にゆくものが、愚直に、りっぱに死にゆくものを "演じていた" ことが、、わたしには、わたしには、、せめてもの救いであった。 等しく死にゆくものへ合掌する、、、 |
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