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窯ぐれ

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は、陶芸のみならず日本の美術、芸術の社会的基盤その構造現場において、文化としてのあるべき "かたち" をもとめます。ひとがひとである為に、そこに堆積されるもの全ては、批評と評価の対象であり、自らもまた歴史の文節を担うものであります。

羽鳥 誠(プロフィール) 


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素描、今週の一枚

2017/05/21 11:59
週ごとに書き上げる素描作品を展示し、これらの作品を公的性格を具有する批判の対象としたい。今週のアップ画像は、これ、昨日、出掛けたおりの一枚なり。まだ描写の用材が定まらない。鉛筆・三菱ユニは滑らかであるが、書き込むおりに立ち上がる対象との対話が不満なり。

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太平洋美術にて、再び素描を始む

2017/03/29 11:53
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既に数十年が過ぎた今、、いまも大学受験と研究所なるものに通うことは、進むべくその美術教育を受ける者にとって必須のことであろう。彫刻の学科に入学する為、浪人時代を含めて3ケ所のその筋の研究所に次々と通ってみた。中でも自分にとって一番肌身に合った所が、当時の太平洋美術学校であった。いっとき、受験デッサンから離れたことは抱える脅迫的不安からの解放でもあった。日暮里駅の西口を出て、喫茶店ルノアールを過ぎ、寺の角を右に折れ、路地裏のような細い道を歩くと、見えてくる諏訪神社の斜め前、モルタル造りの建物、それが太平洋美術学校であった。そして時を同じく今も、黴のごとく佇む太平洋美術会研究所、ひっそりとその場所に貼り付く歴史そのものであった。

石膏デッサンの技量習得は、大学入学受験の条件であったから、そこでも我ながら興味のない石膏像と対峙すること、どのくらいか、一年も通っただろうか。思い出すのは、消しゴム代わりとなる食パンが、当時の学校に何時も用意されてあったことだ。腹の空く年齢の時期でもあるし、それを貪ることしばしであった。しかしそのような行為をも見咎められた記憶をわたしは持っていない。

さらに、大学に入ってからも、太平洋へは通うこととなる。人体塑像の実習には、どうしてもクロッキーの基本的技量を修練することの必要性を感じた。素描とは、造形的にものを観る者をして、立ち上がる「他我」なる多様な角度に存在する経験対象をいかに、わたしという自我の名において収斂させるかにあろう。わたしなる者が対象と向かう時、如何なる者としてその場に存在するのが最も適なるわたしとして運用されるべきか。対象を観るという無数の行為における同時的運用その「他我」の立ち上がりに繰り返し出会うこと、その運用を奔らせること、無数の線は思考へと重なり、ひとつの構成を生み出す。

太平洋美術会研究所の近くには、朝倉彫塑館がある。かつて、その裏には朝倉彫塑塾なる私塾があった。先生が亡くなる半年余りの期間であったが、わたしはそこに入門していた。裸婦モデルを眩しく横目で見ていたのは、彫刻家を目指している17歳のわたしであった。あれから50年も過ぎた。あの頃の閑寂とした付近は、人混と縁日のような賑わいに変わった。わたしはそれを振り切るかのように、同じ家並みを目留めつ歩を進める。そして不思議な感慨に染まりながら太平洋美術へと向かう。

Drawings by Makoto Hatori


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謹賀新年 2017

2017/01/03 12:06
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国際陶芸展

2016/12/01 12:39
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「非色;他者性(10-28-6)」、作品は、2017年に開催する韓国国際陶芸展に出展が決まった。さて今日、世界中に如何程の国際と称する公募展が存在するのだろうか。それは驚く程の数であることには間違いないであろう。また、近年、東欧の伝統的に工芸芸術の優れた国が、ビエンナーレ、トリエンナーレの開催を創設した。これはインターネットの発展が大いに寄与していると思われ、この様にそれは枚挙にいとまがない。私は出来るだけ、自身の作品を海外の公募展という”振るいにかける”ことで、私自身の日本という辺境の枠を押し返す様に心がけているしだい。また、当たり前となっている、”もの”と作家のプロフィール(アーテストストーテメント)で作品という概念は、日本にはない。公募展におけるそれは、作品のみ。それでは、かのデュシャンが唱えている「作家は、作品をつくるのではない。観点を創るのだ」が近現代芸術の至言であるなら甚だ日本そのものの構造は辺境と言わざるを得ない。日本は別枠、よく言われる言葉だ、意味するところは、あくまでも惑星程度の存在ということであろうか。作品とは、ものと人は切り離せない、特に現代作品において。
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既製の振る舞い

2016/11/11 11:13
最近よく、聞く言葉にエスタブリッシュメントなるものがある。既存の枠組みを語るものなのだが、既存のものに潜む権力性には、現状を維持する力が込められるし、伝統的振る舞いとしてのいわゆる品格を身にまといつつ前景化される。すなわちそこには、本音の部分が隠される状態となって現れる。現状に倦怠を覚えるものにとっては、それは耐え難い忍耐を強いることとなる。良くも悪くも場面の転換が必要となるのである。
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ラトビア、マーチンソン賞陶芸展

2016/05/22 12:03
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作品「非色:他者性(06−28−2)」 133.0-40.0-9.5cm、陶、シリコンチーブ、鉄。この作品は、第1回のラトビア・マーチンソン賞陶芸(国際)展に出展が決まった。来る7月15−9月10日まで、 Daugavpils Mark Rothko Art Centre にて展示されるだろう。由来するマーチンソンとは、ラトビアの陶芸家の名を冠したものである。ピタリス・マーチンソン(1931〜2013)氏とは、20年前に招待をされたリトアニア国際陶芸シンポジウムで、ひと月を共に過ごした。彼の人生には時の政治に翻弄される芸術家の姿があった。彼は、イタリア、フィアンツェの国際陶芸展で2度の最高賞を取りながらも受賞の招待に出席できなかった。当時のソ連政府による、亡命を恐れての旅券発給の拒否にその因あった。何とドラマに満ちたものであろうか。わたしたちのシンポジウムは終了し、わたしは、彼の記事が掲載された専門誌にサインをしたものを贈られた。それが氏とは最後となったが、彼の制作を間近でみてきたし、そのスケールの大きさとアイディアの奥深さを今も忘れることはない。技に走る陶芸、工芸にはない雄大さがそこには存在する。彼が陶芸家でもあるし建築家であったとしても、その構成された作品にはやはり国土が育んだ美的感性が存在するし、至近距離でみる手先の器用さに感嘆するわが工芸的なるものとの違いは歴然である。
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伝統なる先端性

2016/04/09 12:24
伝統が如何に先端性に満ちているかについて考えたみたい。

窯が装置であり、テクノロジーである事は疑いもないことである。だがそれをして窯が「もの」としての意識においてのみ存在することはならない。少なくともそれを扱ういわば工人との関係において、伝統的窯が引き起こす偶然性がまず存在し、それに工人の美的感覚が後に加わるといった一体性においては、その引き上げた何ものかは遂に創るられしものへと属性は変わるのである。

工人なる人がその何ものか妙なる造形に感情を奪われ、自身の感覚を移入切り取るといった瞬間、偶然性の持つ偶然性は失われ偶然であったろうその「もの」との共有は成り立つ。ちょうどファインダーを通じてものを切り取る写真の持つ芸術性と同じである。積極的価値が既に存在しそれを人が認めるわけではない、積極的価値であるか否かは偶然に立ち会った人が決めるのである。

次にその積極的価値が工人の美的感覚を醸造することにもなろう、或いはその偶然性のさらなる誘発を探求するであろう。このような作業が創造と呼べぬ筈はない。日本の伝統的文芸、技芸においては発信する側と受け取る側の明確なる区別は存在しない。造ることは観ることであり、鑑賞者はいつでも造り手に移行する習わしが存在する。

すなはち、偶然性もまた存在価値として共有認識しそれぞれの造り手が持つ、もの造り資産によって偶然性の取捨選択をするわけである。その限りにおいて偶然性は偶然性を喪失するだろう。
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