アクセスカウンタ

窯ぐれ

プロフィール

ブログ名
窯ぐれ
ブログ紹介

は、陶芸のみならず日本の美術、芸術の社会的基盤その構造現場において、文化としてのあるべき "かたち" をもとめます。ひとがひとである為に、そこに堆積されるもの全ては、批評と評価の対象であり、自らもまた歴史の文節を担うものであります。

羽鳥 誠(プロフィール) 


All Copyrights Reserved (c) HATORI Makoto , 2005-2016


zoom RSS

国際陶芸展

2016/12/01 12:39
画像


「非色;他者性(10-28-6)」
この作品は、2017年に開催する韓国国際陶芸展に出展が決まった。
今日、世界中に如何程の国際と称する公募展が存在するのだろうか。それは驚く程の数であることには間違いないであろう。また、近年、東欧の伝統的に工芸芸術の優れた国が、ビエンナーレ、トリエンナーレの開催を創設した。これはインターネットの発展が大いに寄与していると思われ、この様にそれは枚挙にいとまがない。私は出来るだけ、自身の作品を海外の公募展という”振るいにかける”ことで、私自身の日本という辺境の枠を押し返す様に心がけているしだい。また、当たり前となっている、”もの”と作家のプロフィール(アーテストストーテメント)で作品という概念は、日本にはない。公募展におけるそれは、作品のみ。それでは、かのデュシャンが唱えている「作家は、作品をつくるのではない。観点を創るのだ」が近現代芸術の至言であるなら甚だ日本そのものの構造は辺境と言わざるを得ない。日本は別枠、よく言われる言葉だ、意味するところは、あくまでも惑星程度の存在ということであろうか。作品とは、ものと人は切り離せない、特に現代作品において。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


既製の振る舞い

2016/11/11 11:13
最近よく、聞く言葉にエスタブリッシュメントなるものがある。既存の枠組みを語るものなのだが、既存のものに潜む権力性には、現状を維持する力が込められるし、伝統的振る舞いとしてのいわゆる品格を身にまといつつ前景化される。すなわちそこには、本音の部分が隠される状態となって現れる。現状に倦怠を覚えるものにとっては、それは耐え難い忍耐を強いることとなる。良くも悪くも場面の転換が必要となるのである。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


ラトビア、マーチンソン賞陶芸展

2016/05/22 12:03
画像

作品「非色:他者性(06−28−2)」 133.0-40.0-9.5cm、陶、シリコンチーブ、鉄。この作品は、第1回のラトビア・マーチンソン賞陶芸(国際)展に出展が決まった。来る7月15−9月10日まで、 Daugavpils Mark Rothko Art Centre にて展示されるだろう。由来するマーチンソンとは、ラトビアの陶芸家の名を冠したものである。ピタリス・マーチンソン(1931〜2013)氏とは、20年前に招待をされたリトアニア国際陶芸シンポジウムで、ひと月を共に過ごした。彼の人生には時の政治に翻弄される芸術家の姿があった。彼は、イタリア、フィアンツェの国際陶芸展で2度の最高賞を取りながらも受賞の招待に出席できなかった。当時のソ連政府による、亡命を恐れての旅券発給の拒否にその因あった。何とドラマに満ちたものであろうか。わたしたちのシンポジウムは終了し、わたしは、彼の記事が掲載された専門誌にサインをしたものを贈られた。それが氏とは最後となったが、彼の制作を間近でみてきたし、そのスケールの大きさとアイディアの奥深さを今も忘れることはない。技に走る陶芸、工芸にはない雄大さがそこには存在する。彼が陶芸家でもあるし建築家であったとしても、その構成された作品にはやはり国土が育んだ美的感性が存在するし、至近距離でみる手先の器用さに感嘆するわが工芸的なるものとの違いは歴然である。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


伝統なる先端性

2016/04/09 12:24
伝統が如何に先端性に満ちているかについて考えたみたい。

窯が装置であり、テクノロジーである事は疑いもないことである。だがそれをして窯が「もの」としての意識においてのみ存在することはならない。少なくともそれを扱ういわば工人との関係において、伝統的窯が引き起こす偶然性がまず存在し、それに工人の美的感覚が後に加わるといった一体性においては、その引き上げた何ものかは遂に創るられしものへと属性は変わるのである。

工人なる人がその何ものか妙なる造形に感情を奪われ、自身の感覚を移入切り取るといった瞬間、偶然性の持つ偶然性は失われ偶然であったろうその「もの」との共有は成り立つ。ちょうどファインダーを通じてものを切り取る写真の持つ芸術性と同じである。積極的価値が既に存在しそれを人が認めるわけではない、積極的価値であるか否かは偶然に立ち会った人が決めるのである。

次にその積極的価値が工人の美的感覚を醸造することにもなろう、或いはその偶然性のさらなる誘発を探求するであろう。このような作業が創造と呼べぬ筈はない。日本の伝統的文芸、技芸においては発信する側と受け取る側の明確なる区別は存在しない。造ることは観ることであり、鑑賞者はいつでも造り手に移行する習わしが存在する。

すなはち、偶然性もまた存在価値として共有認識しそれぞれの造り手が持つ、もの造り資産によって偶然性の取捨選択をするわけである。その限りにおいて偶然性は偶然性を喪失するだろう。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


季節の挨拶

2015/12/19 11:23
画像
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


振る舞い

2015/09/30 10:48
合羽橋の道具屋街まで、あるもの探しの散策をしに行く。作品へのアイデアは存外ごちゃごちとした場所に潜んでいるものだ。これ何かに使えるのでは、などと自問しながら有り余る雑多なものに身を浸すことは楽しいものだ。

当然に隣接する浅草寺をも訪れる。夥しい観光客(信心深い近郊近在のひとびとではない)、それも一目、中国からのお客様であると判断できる人たちの群れ。門前街の流れとなりそれが覆いかぶさる。これがさしあたりの経済効果には歓迎であるのかもしれない。しかし、いまここで失われる効果も存在していることに気がつく必要があるだろう。

着物を纏うた若い女性、二三人の様子は明らかに日本人のそれとは異なる。次々に出会う着物姿の女性、なかには男性も。布地の様子(化繊)や歩き方、歩きながらの飲食、何より顔つきから、東洋人であるが、それらが中国人の方々と理解できたのは間も無くであった。付近を散策して貰うレンタル衣装に着替えているのだ。

非東洋、欧米圏からの観光客の目からは、それが日本人の「伝統的」すがた、と捉えられること有り、、、となることに心配となった。正しい様子を印象づけて貰うためにも、商売の前に若干の「振る舞い」を与えるべきかと思うしだいなのだ。せっかく、来て欲しいと思ったのなら、日本の「こころ」も商品として示すのが良いだろう。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


非色 - 贈与を断ちさらなる霊性をみる

2015/09/25 11:57
画像



はじめに、一連の作品はこのテクストを図解するものではない。


わたしは日本の伝統的無釉陶の背後に息ずく「無為自然」- その「あるがまま」 とは何であるかを模索し続けてきた。それは言わば、人がひととして演ずるべき究極の作法であった。所謂それは「道」であった。それは装飾や技法といった言葉に置き換えできる情報という中身ではなく、それは所謂「思想」ではなかった。自然崇拝なる曖昧な意味づけは勿論、その伝統もまた切迫した存在ではなかった。無釉陶の「無」なる精神的要素は何もない - 絶対性ではなく、それが如何様なるこころの景観も投影される宇宙誌であった。ならばこの「 白」とは、汚れたものや穢れたものが、可能性や未知のものが渾然する状態を- 非色 という観点を以って、未だ、これからもわたしがわたしの回答を持つことのないわたしの宇宙誌となるだろう。

伝統的焼成による無釉陶とは人為的に施釉を施さないゆえ無釉陶と称すものの、焼成という過分な自然の「贈与」、自然釉 - 色彩は必ず現れる。これはわたしの長い間のこころの苛立ちであった、、、この付与されるものに対してそこからさらなる概念世界の膨張を読み取ることはできなかった。窯変や降灰といった美しい偶然の景色 - 自然釉とは、わたしがわたしの意識をごまかす故の読み込みであったのだろう。しかし、「白」をそこに重ねることで、それを非色と捉えることで、感覚世界と概念世界を結び往還し、共有するこころ即ち「言葉」となり何ものかの再生へつなげることができるかも知れぬと感じた。

非色 - この伝統的焼成に拠らない一連の作品の表記体系として、ふたつの記号が併用される。この作品の構成はその体系に添うものである。それは大きく卵形とそれらを連動させる装置としての他の部位がある。日本語の言語状況である表意文字としての漢字、これが文字通り図像、卵形の部分である。また表音文字としてのカナ(ひらがな、かたかな)- その他の表象されぬ連結部位であり、それは他者たる個々の卵を確認する要素であり、暫定的なるもの - 異素材などがある。

何故たまごか - この場合、まず外的リアリティの表現ではなく、記号として有りき概念としての存在。「本歌取り」- 最も初歩的生物形態として卵とはありきたりの形と意味合いを図示しつつ潜在的可能性ある無限の存在である。その卵形とは謂わば求める理想であり、伝統的メッセージでもある。上述、併用された「ふたつの記号」イメージは呼応し会いつつ前景化され、並行に処理され情報化される。そのイメージは共感し合う他者たる者の他者性を問うている。カナ - 卵形以外の連結部位が連動することでそれらの微妙な調整が始まるだろう。それはとりもなおさず互いの同期である。

伝統的日本の無釉陶を思考するトライアングル構造 - その頂点に位置する窯(霊的存在・「神」たらん火の力)、次に土 - 素材(慈愛・あまねく自然)、最後に位置する人(こころ・造り手)この関係における「窯」に対する読み込みといった、期待される贈与はその礼節を以って限りなき生命とするところの「白」を重ねることで、わたしがわたしを支配する記憶や経験の断片を断ち切ることができる。残り滓を捨て去ることにより、日本の伝統的美意識をくすぐる根源的なもの、それはわたしのこころの苛立に通ずる未知なる消息 - 霊性、その醸成を一層強く感じることとなり、わたしのもの造りの空間に霊性の共有を深く感じることができることとなるだろう。


注:わが民族は自然からの過分な慈愛(ときには慈悲なきもの・災害)が歴史的に農耕民族のこころの形成に付与してきたものと思う。そこに手を合わせることは即ち宗教行為とは異なるものであり、わたしがわたしをしてワケのわからないもの - それが霊性との出会の瞬間となるのだろ。さらにわたしは日本の伝統的美意識の根底にあるもの、そのあるものを霊性と呼びたい。また、この色彩・白に対して胚胎する意識は、古くわれわれ日本の伝統的美意識としてみじかな存在である。彩色画における共有空間としての余白や水墨画における無垢な空間(素材そのもの)を、単なる背景化と捉えることはしない。他者たるものとの関係、その意図されぬ積極的存在とも捉えるのである。
記事へブログ気持玉 / トラックバック / コメント


続きを見る

トップへ

月別リンク

窯ぐれ/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる